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電気に魅せられて
ユニコーンの魅力は、5者5様の音楽性とキャラクターが各々を受け入れながらユルく共存していること、と書きました。それから、「いい年したおっさんが好きなことやってる」ということも(過去記事:ユニコーンが示すもの)。この、オッサン的魅力を醸し出しているいい具合なバンドがあります。

ぼくはもともと熱心なファンというほどでもなく、まあふつうに好きなバンドのひとつでした。音楽的にはカッコよくて、キャラ的にはバカやってる人たちだよなあ、という感じで。それが先日、『Live at FUJI ROCK FESTIVAL ’06』の映像を見たのをきっかけに、彼らに対する見方が変わりました。バカはバカなんですけど、めちゃめちゃカッコいいじゃないですか。すてきに「カッコいい大人」じゃないですか。

電気グルーヴ
キューンレコード
発売日:2007-10-24


電気グルーヴ。3万人の観衆を熱狂させた、2006年フジロックステージの模様を収録したDVDです。「N.O.」をはじめ、「Shangri-La」「虹」「かっこいいジャンパー」「あすなろサンシャイン」「富士山」などのヒット曲を惜しげもなく披露したセットリスト。ぼくは彼らのことをあまり詳しく知らないので、Amazonに寄せられたレビューを参考に見てみます。それは「一番求められている電気グルーヴ」を最大級に再現したセットリスト、だったそうです。

昔から電気を見ている人ならご存知だろうが、かつては基本的に 「N.O.」や「虹」、「Shangri-La」などの観客が求める曲はやらなかった。

例えやったとしても、絶妙にアレンジを変えて(時にはビックリするほど格好良く、 時にはウンザリするほどフザケきって)、ストレートにやる事は滅多に無かった。 しかし、それでも電気グルーヴのライブが素晴らしかったのは、 そのスカシ方が余りにも格好よかったし、ふざけ方が一流であり、 その丁度いいテンションは彼らにしか出せないものだったからだ。

しかし、あの日のフジロックでのライブは今までと違っていた。
二人は明らかに本気だった。

そこには、はじめて電気グルーヴというモノに正直に向かい合った二人がいた。

- Amazonカスタマーレビューより


すばらしいレビューだと思います。石野卓球とピエール瀧という人物をおぼろげながらも知っているならば、このレビューが言わんとしていることは、なんだかよくわかる気がします。だとしたら、これはちょっと感動的なライブだったのではないでしょうか。奇跡の一夜だったのではないでしょうか。こんなレビューもありました。

「ロッキング・オン・ジャパン」のインタビューで、卓球は「06年のフジロックで、何かが確実に終わった」と振り返っています。

- Amazonカスタマーレビューより



1曲目「N.O.」(試聴)から、ふっ切れたように熱唱する卓球。うろうろと歩き回ってサポートする瀧。腹の出たおっさんです。おっさんが、おっさんであること(トホホ感)を隠さずに、おっさんである自分(トホホ感)を受け入れて、少年のよう(キャハハ感)に歌う。その光景はやはりちょっと感動的です。

彼らがなぜ以前、観客が求める曲はやらなかったのか。単にひねくれ者なのか、意地悪なのか、職人としてのこだわりなのか、音楽性の問題なのか。道を究めてストイックになるほど、大衆受けのするポップソングを軽んじたくなる気持ちはわかります(それはぼくにもあるから)。でも彼らがなぜ以前、観客が求める曲はやらなかったのか、ほんとうのところは、ぼくにはわかりません。そして、なぜこのフジロックで解禁したのか。彼ら自身がやりたかったからなのか、観客が求めるということに応えたのか、それもぼくにはわかりません。

ただいずれにしても、ここでの電気が出した答えはこういうことだと思います。それは、「観客が求める自分」もぜんぶ含めて「自分」だということ。おっさんである自分を受け入れるのと同時に、観客が求める自分も受け入れるということ。それが、このライブでのふっ切れ具合につながっているのではないかと思うのです。

さらに言うと、卓球が自分で追求したいと思う音楽性よりも、観客が求める曲を重視したというのだとしたら、これはまたひとつの答えを示していると思います。どういうことかというと、自分が信じる音楽道も大切だけれども、ここでは、観客との「関係性」に重きを置いた、というよりも「関係性」の中によろこびを見いだした、ということではないかと思われるからです。はなしとびますが、釈徹宗さんが『おせっかい教育論』の中で、「大阪人の会話は適当に相手に合わせ、その場の流れがよければ内容はなんでもいいと思っているフシがある」と述べていました。それはいい加減であるけれども、「相手の話しに合わせて語ろうとするのは、語りの一貫性よりも関係性を優先させている証拠である。相手の流れに身をまかすことをよしとしている態度の表れである」と。つまり、自分の正論ばかりを主張していたら、多様な価値観の中では対立を生むだけです。相手を打ち負かして排除しようという閉鎖性につながります。多様性のなかでたのしく過ごすには、その多様な関係性をたのしむことにあるのではないかという気がします(ツイッターにもそういう面があるように感じます)。電気と観客の関係性がここではこんなに「たのしそう」に見えるから。

2曲目「Shangri-La」以降も、怒濤のヒットチューンをイカしたサウンドにのせて駆け抜けます。(サポートメンバーとして、いまは亡きKAGAMIが参加しているのも要因のひとつかもしれませんね。)ぼくははじめて聴いた「新幹線」「レアクティオーン」という曲もかっこよかった。

そして、9曲目「富士山」(試聴)は、瀧がいちばん輝く瞬間。
どう輝くかというと、こんなふうに。

/^o^\フッジッサーン

太鼓のように打ち鳴らされるパーカッションの嵐の中、富士山と化した瀧の頭からは煙が吹き出し、聴衆と一緒になって「フッジッサーン!フッジッサーン!」の連呼。とにもかくにも「フッジッサーン!フッジッサーン!」同じアホなら「フッジッサーン!フッジッサーン!」

これって「祭り」ですよね。
ハレとケの文化における、ハレとしての祭りのダイナミズムを感じます。糸井重里鼎談集『経験を盗め -文化を楽しむ編-』の中で、みうらじゅん氏は「祭りって、年に一度のパンクなのかな」と言っていました。森田三郎氏は「祭りは、いつもと違った状態にすることが大事な仕掛け」だと。以前ピエール瀧が出演していたNHKの番組「ようこそ先輩」で、彼が担当した授業もそんなテーマでした。このことは深い内容だと思うので、またじっくりとべつの記事で考えることにして、要約すると、たまにはハジけようぜ!ってことだと思います。年とともに腹が出てきたとしても。

ピエール瀧がこのバンドにいる理由もそこんところにあると思うんです。参考までに、ピエール瀧って電気グルーヴで何をしてる人なの?という記事の中に、彼の役割を端的に示した動画がありますのでお時間のある方は見てみてください。

ラスト、10曲目は「虹」(試聴)。
日本のテクノの中で、ぼくがいちばん好きな曲です。06年バージョンのアレンジが施され、グルーヴ感と美しさがとけ合ったこの曲は、この日のラストを飾るにふさわしいものになっています。これ現場にいたら泣くでしょうね。

そんなこんなで、ぼくは本気の電気グルーヴにやられてしまったのでした。


ところで石野卓球は、震災後の3月24日に「電気グルーヴからのお知らせ。」というツイートともに新たなロゴを公開?しました(これ)。これって、卓球なりのメッセージなんでしょうか。節電の呼びかけ?電気を使う自分らへの皮肉?いやいや、ただ単におもろいからやっただけだと、ぼくは思います。ええ、(分別のある)大人なのにです。そんな電気が、ぼくは好きです。

関連:
電気グルーヴ オフィシャルウェブサイト
「N.O.」PV
節電呼びかけ?石野卓球さんが“節電気グルーヴ”のロゴを公開

電気GROOVE,子門’z,瀧勝
キューンレコード
発売日:1994-08-01
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BEADY EYE (オアシスのリアムによる新バンド)
バンドというのはつくづく不思議なものであるんだなあと思います。
ぼくはバンドをやったこともないし楽器も演奏できないので実際の現場はわからないのだけれども、カタチとして残されたいろいろなバンドの作品から、彼ら特有のマジックを感じる瞬間を共有することができます。元オアシスのリアム・ギャラガーによる新バンド『BEADY EYE(ビーディ・アイ)』は、意外にもそうしたマジックを色濃く感じさせてくれる瑞々しいバンドです。

こちらがファースト・アルバム『Different Gear, Still Speeding』。
ぼくの誕生日と同日に日本先行発売だったんですね(と、さりげなく誕生日をアピールしておいて)。いやあ、新譜への感度が低くなっているので、今日までぜんぜん知りませんでした(ちなみにニコニコニュースで彼らの存在を知りました)。

B004GZJ8OYディファレント・ギア、スティル・スピーディング
(初回生産限定盤)(DVD付)

ビーディ・アイ
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
2011-02-23

by G-Tools

サイケデリックなジャケットのアートワークからも、60年代への憧憬をもろに感じさせるサウンドからも、目新しさはぜんぜん感じません。というよりも、あまりにも直球まるだしだったので、はじめに聴いたときは笑ってしまいました。リズム&ブルースを下敷きにした、古き良きロックンロール。2011年のいまとなっては、なんてことのないありふれた曲たちです。

まあ、このPVをご覧ください。



まんまビートルズじゃないですか。

いやあ、でもこれでいいんですね。ぼくはこのPVを観てちょっとうるうるしちゃいました。ロックンロールが生まれて間もない頃、まだその「熱」に多くの若者が酔っていた頃、そこには確かにマジックが存在していたと思います。それは、皆が共有できるマジックであり、各自が自分を投影できる物語でもありました。ビートルズには、世界をひとつにする奇跡があったかもしれません。21世紀に入り、情報の多様化がいまも進行中である中で、ロックンロールに限らず、そのようなカリスマ的な存在が出現することはもう無いでしょう。それと同時に、音楽が持つマジックも消えてしまったのか。ぼくが数年前にロックを聴かなくなったのはなぜか。

1991年に登場したオアシスは当時から、「おれたちはビートルズになりたいんだ」と公言していました。ビートルズへの愛と、憧憬を(もちろん音楽的にも)隠さずに掲げることで、彼らはまたたくまに国民的バンドになりました。もちろん楽曲も素晴らしかったし、キャラ的にも際立っていました。ブリット・ポップというブームの後押しもありましたね。しかしブリット・ポップのブームの中でも彼らの存在感は突出していたように思います。その要因は、ギャラガー兄弟の「我が道を行く」ぶりにあったのではないかと、いまになって思います。それが各地での暴言や破天荒なスキャンダルというかたちで表れることも多々ありましたが。

「ビートルズになりたい」と公言することで、我が道をすすんでいた彼らですが、アルバムはデビュー作から大ヒット、続く2ndアルバムも大ヒットと、あっというまに商業的成功を収めてしまいました。ビッグマウスだけでなく、実際にビートルズと同じくらいにビッグになったとき、さて、彼らはどこにすすむのか、その道しるべを失ってしまったように見えました。「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。「ビートルズになること」自体が目的化してしまったとき、彼らが持っていたマジックは消え、楽曲は奮わず、セールス的にも苦戦を強いるようになってゆきました。ああオアシスも終わってしまったか、ぼくもそう思いました。

オアシスの後期作品群がオーバープロデュース気味になっていたことは事実です。ある意味で完璧主義者であったノエルの影響が大きかったのかもしれません。身体が感じた直感よりも、楽曲としての完成度をあたまで追求していった帰結なのかもしれません。「道」を追求するストイシズムは、彼らから開放感を奪いました。

しかし2008年のアルバム『Dig Out Your Soul』では、「らしさ」の呪縛から吹っ切れたかのような音を聴かせてくれ、2009年3月にミュージックステーションに出演。その放映を観たときは、ああオアシスが帰ってきた、そう思った矢先の8月、ノエルが脱退を表明。えええ、けっきょくは兄弟喧嘩かよとツッコミまくりでした。その後、リアムは残されたメンバーでレコーディングを行い、完成したのが本作であるわけです。

オアシスの楽曲の要はノエルであったことは間違いなく、リアムというと暴れん坊のイメージしか無かったので、ノエルがいなくなることでいったいどうなるのかと不安でしたが、なかなかどうして。オアシスという看板を離れることで、なんだか軽やかになった彼らがいます。その曲は驚くほど身体に心地よいものです。

「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。
紆余曲折を経て、リアムが公言してきたことの意味がようやくわかったような気がします。

気心の知れた4人が揃って、「せーの」でジャーンとやる。
バンドという形態の醍醐味がそこにあるような気がします(くり返しますがぼくはバンドの経験がないので想像のはなしです)。今回のアルバムに収録された楽曲は、メンバー各自が曲を持ち寄り、セッションして出来上がったのだそうです。なんのことはない、音楽を楽しむという、いちばん基本的な「愉快さ」がここにはあるんです。オアシスらしさとか、マーケティングとか、そういったしがらみから離れて、ただやりたいことをやる。好きなことをやる。それは彼ら自身の身体が訴えるままに演奏した結果であり、だから、聴いている側のフィジカルに訴えてくる。

オアシスにおいてはギャラガー兄弟の引き立て役であり、黒子であった、他のメンバーがここでは「バンド」として有機的に機能しています。リアムが(各自が曲を持ち寄るという)民主的な方法で作ったこのアルバムは、だから、バンドとしてのマジックが復活しているのだと、思いました。楽曲としての出来よりも、有機体としてのつながりを、その空気を共有する楽しさを教えてくれる彼らの曲は、ちょっと感動的ですらあります。(先日のユニコーンの記事でも、作品の質を落とすことで魅力が増す不思議について書いたばかり。さいきんそんなロックンロール回帰が増えている気がします)。

ちなみにこれはインタビューもなにも読んでいない状態での、音源を聴いただけで感じたことから連想していったぼくの想像(というか妄想)ですので、本人たちの意図は違っているのかもしれません。リアムにしてみれば「は?なに言ってんだこのマスかき野郎が」といったところでしょうか。
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ユニコーンが示すもの(身体性と多様性=新しい公共?)
ユニコーン再結成アルバム『シャンブル』を久しぶりに聴いて感動したので書いときます。いやー、いいねえ。かっこいいわ、このおっさんたち。(リリース当時のレビューはこちら)ユニコーンらしさ。ぼくは当時熱心なファンだったわけでないので、それが何を指すのかは、よくわかりません。再結成後の評判を聞くと、ユニコーンはやっぱりユニコーンだった、という声が多かったような気がします。

B001P057Y8シャンブル
ユニコーン
キューンレコード
2009-02-18


昨年リリースされたアルバムの中で、くるりやアンダーワールドの新譜をぼくは愛聴しました。気がつくと、ついつい手が伸びて聴いていた。子どもが生まれてからCDを買う機会も減り、エキセントリックなものやストイックなものよりも、ベタなものを好むようになったことと関連します。で、それはなんでだろうなと考えた時に、ユニコーンのこのアルバムのことを思い出しました。感覚が似ているなあと思ったんです。

ぼくがこれらの作品に惹かれた理由。それをわかりやすく言うと、「いい年したおっさんが好きなことやってる」ということ。ほぼそれに尽きます。いずれも一時代を築いてきたバンドです。であるから、ファンが望むような「らしさ」であるとか、マーケットを拓いていく戦略であるとか、あるいは時代をつくっていく革新性であるとか、外から求められる「見えない縛り」があるはずです。たいていは、それに合わせて、もしくはそのプレッシャーに潰されてつまらない作品をつくってしまうことが多い。ところが、彼らはそういった外からの声には全くおかまいなしだったんです。ユニコーンも、くるりも、アンダーワールドも、その新譜はダサかった。目新しいことも革新性も無かったし、時代をつくっていくようなわくわく感も無かった。でも、とっても気持ちよかった。過剰に自分「らしさ」に縛られることもなく。彼ら自身が好きなことをやっているということが伝わったから。だから、ダサかっこよかった。

話とびますが、受験生の動向やニーズに大学側が合わせるというおかしな風潮という対談の流れで、内田樹さんがこう言っています。

仕事なんて、自分で作るもんじゃない?マーケットがあって、それにどういうニーズがあるのかって探すんじゃなくてさ、「俺はこれがやりたい!」って言ってると、「もっとやって」って言うひとが出てきてさ。「じゃあちょっとお鳥目ちょうだいよ」「うん、払うよ」ってなって、続くってもんでさ。

SIGHT 2011WINTER号 内田樹×高橋源一郎対談より


内田さんも高橋さんも、世間をなめてた度合いからいうとすごいのだと。そんなことやってると絶対食えないぞ、と何度も言われたのだとか。でも、なんとかならあと思ってたそうで。「世の中甘くない」けども、でも「結構甘いぞ」っていうのも。

で、ユニコーンの話に戻りますが。おれたち、これが好きなんだからしょうがないよね、というある種の開き直りというか、自然体ですよね。メッセージを伝えたいとか、ファンの期待に応えたいとか、そういうんじゃなく。ただやりたいから、やってる。それって、自分のまるごとを引き受けていくと覚悟した人にしか得られない達観だと思うんです。そういう人たちが鳴らす音っていうのは、フィジカルに訴えてくる。

そう、キーワードは身体性。けっきょく自分の身のほどの届く範囲のことしか、ぼくたちは語れないんですよね。たとえ語ったとしても、それは想像でしかない、ということを踏まえた上でないと語れない。(このことはまたべつの機会にじっくり考えたいです。)達観したおっさんは、大きなことを語らない。ただ自分の身の回りを誠実に(愉快に)生きる。それが成熟した大人のすがただと、ぼくはさいきん思います。そういうおっさんにぼくもなりたい、と。まるで、悪ガキたちがそのまま大人になって、相変わらずバカやってるようなユニコーンのメンバーを見ると、こっちまで嬉しくなる。


で、そういったユニコーンの資質っていうのは主に阿部Bと民生によるところが大きいように感じます。特典のDVDに収録されているレコーディング風景の映像を見ると、なおさら。上に書いたような「おっさん」を体現しているのは、この二人(川西さんも入れてもいいかもしれない)。でも、やっぱりそれだけではユニコーンにはならないんです。ここがこのバンドのすごいところ。

あの、EBIさんの曲がぼくは好きではありません。おっさんになり切れない、少年のような蒼さが。アルバム聴いてても、何度かとばしちゃう。DVDの中で奥田民生は「EBIのあの暗い曲さぁ」と軽くdisってます。でも、ちゃんとアルバムに入ってるんです。5人全員の曲が、入ってるんです。作品としてのクオリティとかトータルイメージとかを考えたら、おそらくそうはしないでしょう。だって、単純に楽曲の出来でいえば民生のソロのほうがいいだろうし。つまりマーケティング的な要素ではない。等価交換の市場経済の論理から逸脱している。ところが、5者5様のバラバラな楽曲を入れることで、クオリティを落とすことで、魅力を増すという不思議なことが起こる。

これ、とっても大事なことを指し示しているように思います。すなわち、多様性を内包する共同体。多種多様な人たちが暮らす、ぼくたちのまわりのロールモデルなんじゃないかと。民生はEBIの曲をdisりながらも、受け入れるんです。これが、大人です。価値観が異なる人とも、しょうがないなあと、付き合っていくしかない。そうしてそれは、課せられた重い苦役でもない。さらりと受け流したり、楽しんだり、それでいい。だって彼らの基本は「いい年したおっさんが好きなことやってる」なんだから。

労働が苦役であり、その苦労の対価として報酬を得る、という概念しか存在しなかったなら、おそらく人は多様性に対して寛容になれないでしょう。おれはこんなにがんばっているのに、なんでおれだけ、と他人を羨んだり、がんばってない人を糾弾したくなる。いま世間に瀰漫しているイライラはそういったものだと思います。だからまず「やりたい」が先にあること。自分がやりたいことをやっていれば、他人のことなんかどうでもよくなる。どうでもよくなる、っていうと言葉が悪いかもしれませんが、それがつまり寛容ということじゃないかと思うんです。過度の介入はせず、かといって無視するでもなく。

多様性を内包する共同体。ぼくはこの言葉から「新しい公共」という概念を連想します。ひとりひとりの「私」が「公」を担っていくという考え方ですが、それは決して滅私奉公的なマインドではありません。「やらなければいけない」苦役のようなものが「公」というわけじゃない。むしろ、ひとりひとりが「やりたい」ことをやることで、自然発生的につながりが生まれ、共同体をつくっていく。だから、そのカタチは、このユニコーンのDVDのように、テキトーでゆるやかな、ダラダラっとした感じでぜんぜんいいと思います。ぼくはそういうほうが好きだな。
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