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    くるり / everybody feels the same

    • 2012.09.06 Thursday
    • 10:31


    きたきたきたきたきたよこれ。
    新メンバーが加入し4人編成となって初のリリースとなる新曲。めちゃかっこいい。
    このPVを見ていると、くるりにもいよいよ「色気」が加わったとわくわくしてきます。もちろん女性メンバーが加入したということもあるだろうけど、単にそれだけじゃなくて、こうして躍動するおっさんたちに大人の色気みたいなのを感じちゃうわけです。それが相乗効果ってやつなんだろうけど、なんて楽しそうなんだこいつらは、っていう。「色気」っていうか「色味」っていうか。生きるってこんなに色鮮やかなことなんだなあと嬉しくなる。

    個人的な好みの話になるけど、ぼくは『TEAM ROCK』〜『THE WORLD IS MINE』の頃のくるりが好きで、それはいまも変わってない。いまその頃の曲を聴くと、若さゆえの感受性がセンチメンタルなメロディに乗って押し寄せるノスタルジーにぐっと来ちゃう。「ワンダーフォーゲル」とか、いま聴いても胸キュンですよ。これって若いがゆえの同世代バンドへの共感であったし、郷愁だと思います。

    その後のくるりは、いい曲なんだけれども、どこか「枯れて」いるような感じがして、あまり聴き込むまでに至らないことが多くなりました。特にアルバム単位で聴けなくなったのが、自分にとってはどこか違和感があって、なんでなんだろうなあと思いつつ。


    で、この新曲。痺れるような疾走感には『TEAM ROCK』の頃のロックンロールを連想するけれども、やっぱりそれとも全然違う。なんたってもう若くないから。大人になってだいぶまるくなったわけすよ、彼らも、ぼくらも。余裕だって出てくるわけで、そういう懐の深さが最初に書いた大人の色気みたいなのにつながるのかもしれませんが、でもそれだけじゃない。
    ここでの躍動する彼らには、なんというか、湿り気がある。いや、湿っぽいというニュアンスじゃなくて、フレッシュという感じの。フレッシュなんだけど、若さゆえのフレッシュとはまた違う湿り気。なんだろうこれ。この自己肯定感と突きぬけ感はいままでのくるりには無かったと思う。てっきり枯れていくのかと思っていたら、思いきり色とりどりの「色味」を見せてくれたっていう。いや、衣装のことじゃなくて。


    以下、歌詞より。言っとくけど解釈はぜんぶ妄想です。

    お願いRadio From U.K. Oasis Blur Supergrass Happy Mondays
    胸は躍る 目には涙 夢は続く くり返す
    振り返ればお月様


    いいですね。90年代のUKロックが持っていたキラキラの高揚感を思い出します。怖いものなんてなくて(逆か?)、前方には楽しいことしか待ってないんだぜという根拠のない自信があったりして。そんなロック少年もいまでは、

    角栄が作った上越新幹線に乗って
    スピーディー(SPEEDI)なタイムマシンは新潟へ向かう
    2012年の冬 悲しみは吹雪の向こうから
    手をとる夜 灯をともす 風が動く
    未来まで溶けない雪の白さ 手を貸してみろよ


    おっさんじゃないですか。角栄とかSPEEDIとか視点がもうおっさんですよ。場末の居酒屋で酌を交わしながら、新聞を賑わす暗いニュースに眉をひそめるおっさんの姿が目に浮かびます。世の中のことがいろいろと分かってきて、シニカルにものごとを眺めたり、自分にはどうしようもできないことってのがあるという現実を知ったりして。愚痴を言ったり、せいぜい肩を寄せ合うくらいしかできないけれど。
    それでも、おっさんは歌います。踊ります。

    背中に虹を感じて 進め(走れ) 泳げ(もがけ) 進め 進め


    うう。
    人生の暗い面を知ったおっさんが、生きることの色鮮やかさを歌い、そして自らが色とりどりの虹となって踊る。もがく。これは同世代のおっさんにとっては、キますよ。

    というわけで、かつてサブカル系を行ったり来たりして、音楽がキラキラと輝いて見えていたオタクも、いまは2人の子を持つ36歳のおっさんになったわけですが、そんなぼくにとって、新生くるりのこの曲は、まるでむかしといまを繋ぐかのように、とても楽しくて、かなり泣ける4分間になりました。


    追記:
    後で知りましたが、今回の作詞は岸田繁じゃなくて、くるり名義なのだそうです。ああだからこんなに色とりどりで風通しがよくて「広がって」いるんだなあと、やけに感心しました、はい。


    新生くるりのニューシングル、8月1日リリースです。初回限定盤には、レコーディングドキュメンタリー及びライブ映像が収録されたDVDが付属するらしいです。


    くるり
    ビクターエンタテインメント
    発売日:2012-08-01



    さらに、ニュー・アルバムもリリース!
    「everybody feels the same」を含む全19曲を収録した、10thアルバムはこちら。


    くるり
    ビクターエンタテインメント
    発売日:2012-09-19



    電気に魅せられて

    • 2011.06.17 Friday
    • 09:22
    ユニコーンの魅力は、5者5様の音楽性とキャラクターが各々を受け入れながらユルく共存していること、と書きました。それから、「いい年したおっさんが好きなことやってる」ということも(過去記事:ユニコーンが示すもの)。この、オッサン的魅力を醸し出しているいい具合なバンドがあります。

    ぼくはもともと熱心なファンというほどでもなく、まあふつうに好きなバンドのひとつでした。音楽的にはカッコよくて、キャラ的にはバカやってる人たちだよなあ、という感じで。それが先日、『Live at FUJI ROCK FESTIVAL ’06』の映像を見たのをきっかけに、彼らに対する見方が変わりました。バカはバカなんですけど、めちゃめちゃカッコいいじゃないですか。すてきに「カッコいい大人」じゃないですか。

    電気グルーヴ
    キューンレコード
    発売日:2007-10-24


    電気グルーヴ。3万人の観衆を熱狂させた、2006年フジロックステージの模様を収録したDVDです。「N.O.」をはじめ、「Shangri-La」「虹」「かっこいいジャンパー」「あすなろサンシャイン」「富士山」などのヒット曲を惜しげもなく披露したセットリスト。ぼくは彼らのことをあまり詳しく知らないので、Amazonに寄せられたレビューを参考に見てみます。それは「一番求められている電気グルーヴ」を最大級に再現したセットリスト、だったそうです。

    昔から電気を見ている人ならご存知だろうが、かつては基本的に 「N.O.」や「虹」、「Shangri-La」などの観客が求める曲はやらなかった。

    例えやったとしても、絶妙にアレンジを変えて(時にはビックリするほど格好良く、 時にはウンザリするほどフザケきって)、ストレートにやる事は滅多に無かった。 しかし、それでも電気グルーヴのライブが素晴らしかったのは、 そのスカシ方が余りにも格好よかったし、ふざけ方が一流であり、 その丁度いいテンションは彼らにしか出せないものだったからだ。

    しかし、あの日のフジロックでのライブは今までと違っていた。
    二人は明らかに本気だった。

    そこには、はじめて電気グルーヴというモノに正直に向かい合った二人がいた。

    - Amazonカスタマーレビューより


    すばらしいレビューだと思います。石野卓球とピエール瀧という人物をおぼろげながらも知っているならば、このレビューが言わんとしていることは、なんだかよくわかる気がします。だとしたら、これはちょっと感動的なライブだったのではないでしょうか。奇跡の一夜だったのではないでしょうか。こんなレビューもありました。

    「ロッキング・オン・ジャパン」のインタビューで、卓球は「06年のフジロックで、何かが確実に終わった」と振り返っています。

    - Amazonカスタマーレビューより



    1曲目「N.O.」(試聴)から、ふっ切れたように熱唱する卓球。うろうろと歩き回ってサポートする瀧。腹の出たおっさんです。おっさんが、おっさんであること(トホホ感)を隠さずに、おっさんである自分(トホホ感)を受け入れて、少年のよう(キャハハ感)に歌う。その光景はやはりちょっと感動的です。

    彼らがなぜ以前、観客が求める曲はやらなかったのか。単にひねくれ者なのか、意地悪なのか、職人としてのこだわりなのか、音楽性の問題なのか。道を究めてストイックになるほど、大衆受けのするポップソングを軽んじたくなる気持ちはわかります(それはぼくにもあるから)。でも彼らがなぜ以前、観客が求める曲はやらなかったのか、ほんとうのところは、ぼくにはわかりません。そして、なぜこのフジロックで解禁したのか。彼ら自身がやりたかったからなのか、観客が求めるということに応えたのか、それもぼくにはわかりません。

    ただいずれにしても、ここでの電気が出した答えはこういうことだと思います。それは、「観客が求める自分」もぜんぶ含めて「自分」だということ。おっさんである自分を受け入れるのと同時に、観客が求める自分も受け入れるということ。それが、このライブでのふっ切れ具合につながっているのではないかと思うのです。

    さらに言うと、卓球が自分で追求したいと思う音楽性よりも、観客が求める曲を重視したというのだとしたら、これはまたひとつの答えを示していると思います。どういうことかというと、自分が信じる音楽道も大切だけれども、ここでは、観客との「関係性」に重きを置いた、というよりも「関係性」の中によろこびを見いだした、ということではないかと思われるからです。はなしとびますが、釈徹宗さんが『おせっかい教育論』の中で、「大阪人の会話は適当に相手に合わせ、その場の流れがよければ内容はなんでもいいと思っているフシがある」と述べていました。それはいい加減であるけれども、「相手の話しに合わせて語ろうとするのは、語りの一貫性よりも関係性を優先させている証拠である。相手の流れに身をまかすことをよしとしている態度の表れである」と。つまり、自分の正論ばかりを主張していたら、多様な価値観の中では対立を生むだけです。相手を打ち負かして排除しようという閉鎖性につながります。多様性のなかでたのしく過ごすには、その多様な関係性をたのしむことにあるのではないかという気がします(ツイッターにもそういう面があるように感じます)。電気と観客の関係性がここではこんなに「たのしそう」に見えるから。

    2曲目「Shangri-La」以降も、怒濤のヒットチューンをイカしたサウンドにのせて駆け抜けます。(サポートメンバーとして、いまは亡きKAGAMIが参加しているのも要因のひとつかもしれませんね。)ぼくははじめて聴いた「新幹線」「レアクティオーン」という曲もかっこよかった。

    そして、9曲目「富士山」(試聴)は、瀧がいちばん輝く瞬間。
    どう輝くかというと、こんなふうに。

    /^o^\フッジッサーン

    太鼓のように打ち鳴らされるパーカッションの嵐の中、富士山と化した瀧の頭からは煙が吹き出し、聴衆と一緒になって「フッジッサーン!フッジッサーン!」の連呼。とにもかくにも「フッジッサーン!フッジッサーン!」同じアホなら「フッジッサーン!フッジッサーン!」

    これって「祭り」ですよね。
    ハレとケの文化における、ハレとしての祭りのダイナミズムを感じます。糸井重里鼎談集『経験を盗め -文化を楽しむ編-』の中で、みうらじゅん氏は「祭りって、年に一度のパンクなのかな」と言っていました。森田三郎氏は「祭りは、いつもと違った状態にすることが大事な仕掛け」だと。以前ピエール瀧が出演していたNHKの番組「ようこそ先輩」で、彼が担当した授業もそんなテーマでした。このことは深い内容だと思うので、またじっくりとべつの記事で考えることにして、要約すると、たまにはハジけようぜ!ってことだと思います。年とともに腹が出てきたとしても。

    ピエール瀧がこのバンドにいる理由もそこんところにあると思うんです。参考までに、ピエール瀧って電気グルーヴで何をしてる人なの?という記事の中に、彼の役割を端的に示した動画がありますのでお時間のある方は見てみてください。

    ラスト、10曲目は「虹」(試聴)。
    日本のテクノの中で、ぼくがいちばん好きな曲です。06年バージョンのアレンジが施され、グルーヴ感と美しさがとけ合ったこの曲は、この日のラストを飾るにふさわしいものになっています。これ現場にいたら泣くでしょうね。

    そんなこんなで、ぼくは本気の電気グルーヴにやられてしまったのでした。


    ところで石野卓球は、震災後の3月24日に「電気グルーヴからのお知らせ。」というツイートともに新たなロゴを公開?しました(これ)。これって、卓球なりのメッセージなんでしょうか。節電の呼びかけ?電気を使う自分らへの皮肉?いやいや、ただ単におもろいからやっただけだと、ぼくは思います。ええ、(分別のある)大人なのにです。そんな電気が、ぼくは好きです。

    関連:
    電気グルーヴ オフィシャルウェブサイト
    「N.O.」PV
    節電呼びかけ?石野卓球さんが“節電気グルーヴ”のロゴを公開

    電気GROOVE,子門’z,瀧勝
    キューンレコード
    発売日:1994-08-01

    BEADY EYE (オアシスのリアムによる新バンド)

    • 2011.03.10 Thursday
    • 18:16
    バンドというのはつくづく不思議なものであるんだなあと思います。
    ぼくはバンドをやったこともないし楽器も演奏できないので実際の現場はわからないのだけれども、カタチとして残されたいろいろなバンドの作品から、彼ら特有のマジックを感じる瞬間を共有することができます。元オアシスのリアム・ギャラガーによる新バンド『BEADY EYE(ビーディ・アイ)』は、意外にもそうしたマジックを色濃く感じさせてくれる瑞々しいバンドです。

    こちらがファースト・アルバム『Different Gear, Still Speeding』。
    ぼくの誕生日と同日に日本先行発売だったんですね(と、さりげなく誕生日をアピールしておいて)。いやあ、新譜への感度が低くなっているので、今日までぜんぜん知りませんでした(ちなみにニコニコニュースで彼らの存在を知りました)。

    B004GZJ8OYディファレント・ギア、スティル・スピーディング
    (初回生産限定盤)(DVD付)

    ビーディ・アイ
    ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
    2011-02-23

    by G-Tools

    サイケデリックなジャケットのアートワークからも、60年代への憧憬をもろに感じさせるサウンドからも、目新しさはぜんぜん感じません。というよりも、あまりにも直球まるだしだったので、はじめに聴いたときは笑ってしまいました。リズム&ブルースを下敷きにした、古き良きロックンロール。2011年のいまとなっては、なんてことのないありふれた曲たちです。

    まあ、このPVをご覧ください。



    まんまビートルズじゃないですか。

    いやあ、でもこれでいいんですね。ぼくはこのPVを観てちょっとうるうるしちゃいました。ロックンロールが生まれて間もない頃、まだその「熱」に多くの若者が酔っていた頃、そこには確かにマジックが存在していたと思います。それは、皆が共有できるマジックであり、各自が自分を投影できる物語でもありました。ビートルズには、世界をひとつにする奇跡があったかもしれません。21世紀に入り、情報の多様化がいまも進行中である中で、ロックンロールに限らず、そのようなカリスマ的な存在が出現することはもう無いでしょう。それと同時に、音楽が持つマジックも消えてしまったのか。ぼくが数年前にロックを聴かなくなったのはなぜか。

    1991年に登場したオアシスは当時から、「おれたちはビートルズになりたいんだ」と公言していました。ビートルズへの愛と、憧憬を(もちろん音楽的にも)隠さずに掲げることで、彼らはまたたくまに国民的バンドになりました。もちろん楽曲も素晴らしかったし、キャラ的にも際立っていました。ブリット・ポップというブームの後押しもありましたね。しかしブリット・ポップのブームの中でも彼らの存在感は突出していたように思います。その要因は、ギャラガー兄弟の「我が道を行く」ぶりにあったのではないかと、いまになって思います。それが各地での暴言や破天荒なスキャンダルというかたちで表れることも多々ありましたが。

    「ビートルズになりたい」と公言することで、我が道をすすんでいた彼らですが、アルバムはデビュー作から大ヒット、続く2ndアルバムも大ヒットと、あっというまに商業的成功を収めてしまいました。ビッグマウスだけでなく、実際にビートルズと同じくらいにビッグになったとき、さて、彼らはどこにすすむのか、その道しるべを失ってしまったように見えました。「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。「ビートルズになること」自体が目的化してしまったとき、彼らが持っていたマジックは消え、楽曲は奮わず、セールス的にも苦戦を強いるようになってゆきました。ああオアシスも終わってしまったか、ぼくもそう思いました。

    オアシスの後期作品群がオーバープロデュース気味になっていたことは事実です。ある意味で完璧主義者であったノエルの影響が大きかったのかもしれません。身体が感じた直感よりも、楽曲としての完成度をあたまで追求していった帰結なのかもしれません。「道」を追求するストイシズムは、彼らから開放感を奪いました。

    しかし2008年のアルバム『Dig Out Your Soul』では、「らしさ」の呪縛から吹っ切れたかのような音を聴かせてくれ、2009年3月にミュージックステーションに出演。その放映を観たときは、ああオアシスが帰ってきた、そう思った矢先の8月、ノエルが脱退を表明。えええ、けっきょくは兄弟喧嘩かよとツッコミまくりでした。その後、リアムは残されたメンバーでレコーディングを行い、完成したのが本作であるわけです。

    オアシスの楽曲の要はノエルであったことは間違いなく、リアムというと暴れん坊のイメージしか無かったので、ノエルがいなくなることでいったいどうなるのかと不安でしたが、なかなかどうして。オアシスという看板を離れることで、なんだか軽やかになった彼らがいます。その曲は驚くほど身体に心地よいものです。

    「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。
    紆余曲折を経て、リアムが公言してきたことの意味がようやくわかったような気がします。

    気心の知れた4人が揃って、「せーの」でジャーンとやる。
    バンドという形態の醍醐味がそこにあるような気がします(くり返しますがぼくはバンドの経験がないので想像のはなしです)。今回のアルバムに収録された楽曲は、メンバー各自が曲を持ち寄り、セッションして出来上がったのだそうです。なんのことはない、音楽を楽しむという、いちばん基本的な「愉快さ」がここにはあるんです。オアシスらしさとか、マーケティングとか、そういったしがらみから離れて、ただやりたいことをやる。好きなことをやる。それは彼ら自身の身体が訴えるままに演奏した結果であり、だから、聴いている側のフィジカルに訴えてくる。

    オアシスにおいてはギャラガー兄弟の引き立て役であり、黒子であった、他のメンバーがここでは「バンド」として有機的に機能しています。リアムが(各自が曲を持ち寄るという)民主的な方法で作ったこのアルバムは、だから、バンドとしてのマジックが復活しているのだと、思いました。楽曲としての出来よりも、有機体としてのつながりを、その空気を共有する楽しさを教えてくれる彼らの曲は、ちょっと感動的ですらあります。(先日のユニコーンの記事でも、作品の質を落とすことで魅力が増す不思議について書いたばかり。さいきんそんなロックンロール回帰が増えている気がします)。

    ちなみにこれはインタビューもなにも読んでいない状態での、音源を聴いただけで感じたことから連想していったぼくの想像(というか妄想)ですので、本人たちの意図は違っているのかもしれません。リアムにしてみれば「は?なに言ってんだこのマスかき野郎が」といったところでしょうか。

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